子どもを欠乏から解放する

味覚をとり戻すことができたら、今度は、欠乏の記憶からも自由になりましょう。

欠乏の記憶とは、満たされなかったという強烈な思いです。私たち人間は、必ずといっていいほど、満たされなかったという思いを持っているものです。

子どものころ、欲しくて欲しくてしかたなかったものを買ってもらえなかった思い出、友だちがみな持っていたのに自分だけが手に入れられなかった思い出、みなそうです。

記憶の中の欠乏をとり戻そうとする人間ほど、滑稽で悲しいものはありません。

たとえば、お金に苦労した子ども時代を過ごした人が、しっかり者の大人になる例はむしろ少数派だといわれています。お金に執着するあまり、仕事や人間関係に失敗するか、大金を稼ぐことに成功しても、高額商品やギャンブルなどに浪費する傾向が顕著だとされています。

お金のことほど深刻ではないにせよ、例えば食事に対しても、欠乏の記憶は大きな影を落とします。

具体例としては「甘い物を食べてはいけない!」と厳しく育てられた人が、 一人暮らしを始めたとたんに甘い物ばかり食べるようになって肥満するとか、ファストフードを禁止されて育った人が、大人になってハンバーガーやフライドチキンの偏食をするとか。

こうした欠乏の記憶の問題を考えるとき、私は決まって、ある短編SF小説を思い出します。

 

硬い肉が食べたいんだと言いだして、嘉七郎が雅恵を困らせたことがあった。近頃の肉はどうしてあんなに柔らかいんだ、と言うのである。どうもそういう肉というのは、牛に人工合成の化学飼料を食べさせて、ほとんど運動もさせずに育てたのに違いない。

 

これは清水義範さんの「嘉七郎の交信」(コ昏のカースよ所収/講談社文こという作品の書き出しです。ご存じかもしれませんが、清水義範さんはパステイーシュ文学というジャンルを切り開いた第一人者です。

パスティーシュとは、作風を模写することで、世界の文一象といわれる作家の文体や、その代表作に流れる思想、ストーリーの骨格などをモチーフにして、独自のユーモア世界をつくり上げていく技法のことです。

もっとも、ここではこの技法が問題なのではなく、単に書き出しを借りるだけのことですが。

この短編小説は、傘寿を目の前にした主人公、嘉七郎が、宇宙人に話しかけられたと言い出したことから始まります。

家族たちは、認知症が始まったかと介護の将来不安をうとましく思いますが、そのうちに嘉七郎は「時間が閉じているってことはつまり、宇宙にも果てがあるってことなんだそうだ」と、知るはずのない知識を語り始めます。

現実的な不安が得体の知れない恐怖に変わっていく様子を描いた作品ですが、その書き出しの数行は、まさに嘉七郎が幼かった時代の、欠乏の記憶を表しているように感じます。

理由を述べると興ざめかもしれませんが、この嘉七郎というおじいさんは、子だくさん家族の4番目の子どもで、おそらく服はお下がうに次ぐお下がう、兄や姉の圧制によってひもじい子ども時代を送ったと思われます。

それゆえに老齢になるにつれ、かつて満足に食べさせてもらえなかった「硬い肉」に、これほどの執着を感じるのでしょう。

その肉は誰がどう考えたって硬くてまずいはずなのに、嘉七郎の記憶には「それこそが、十分に味わうことのできなかった最高にうまい肉だ」として残っています。

嘉七郎という名前の主人公に、硬い肉が食べたいといわせたところで、清水作品に親しんだ読み手ならば、もう噴き出して笑い転げるに違いありません。

「それ、あるよね」とわが身を振り返らざるをえなくなるわけです。

食の常識は自分でつくる

この小説の効用は、読んで面白いだけでなく、自分の中に存在する、満たされなかった強い思いを客観的に眺めさせられる点です。

そういう思いに気づくと、そこから少し自由になれます。

前進するためには、過去を振り返ってはいけないとよくいわれます。いまの自分が存在するのは、過去の積み重ねです。

自分が過去にどうだったかということに囚われていると、いまの自分というのは、明日になっても、10年がたっても、いつまでも過去の自分の延長でしかありません。

特に私たち人間は、何かを考えたり振り返ったりする際に「自分が子どもの頃どうだったか?」という記憶・体験に強く支配されています。

しかし、未来をどう生きるかという問題を解こうとするときに、そんなこだわりは何の肥やしにもなりませんし、もはやどうでもいいはずです。

にもかかわらず、それを自分に許していると、過去には考えられなかったように健康な自分とか、考えられなかったようにエネルギーやバイタリティーに満ちた自分には、いつまでたってもなることができません。

食べ物に対しても、同じことがいえると思います。

子どものころの満たされなかった思い出を埋め合わせようとすることは、自分を慰める行為です。もちろん、人一倍健康な人なら慰めることも悪いことではありませんが、健康でもない人が自らを慰めているばかりでは、不健康さを増していくだけのことでしょう。

問題は、欠乏の記憶によってもたらされている食習慣は、本人にはなかなか自覚できないということです。その点については、なぜこれが好きなのだろうかと自間自答して、こだわりの素を解き明かしていくしか方法はありません。

幸いなことに最初にひとつでも紐解くことが出来ると、それを皮切りに次々と芋づる式に謎が判明していきます。

そのためには、まず、料理や食材をよく噛んで味わせて食べさせること・新しい味覚の記憶を作らせること、そして欠乏の記憶によって生み出されている食習慣を改めさせることです。

それが自分の身体と体調に合ったものを選び取る力となり、すぐに成果が出る食事の第一歩になると専門家の間では言われています。

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